本能寺の変の黒幕とは?

皆さんこんにちはこんばんはおはようございます、ムツミです。

 

台風19号に震えながらこの記事を書いていたはずなのに気づいたら今日まで下書きが残っていました。

 

更新を「あしたにしようあしたにしよう」とどんどん先延ばしにして、しまいました。

 

 

さて、そんな今日はみんな知ってる本能寺の変についてです。

 

 

今更説明の必要は無いかもしれませんが一応本能寺の変とはなにか、を書いておくと、

 

天正10年(1582年)に織田信長重臣明智光秀に裏切られて天下統一を目前にして命を落としたという事件です。

 

本能寺の変に関しては残されている史料が非常に少なく、実態は未だに謎に包まれているところが多いです。

 

謎が多いだけに様々な憶測もささやかれています。

 

例えば「織田信長本能寺の変で死んでいない!!」や「真の黒幕は明智光秀ではない!!」などです。

 

信長死んでない説は本能寺で信長の遺骸が見つかっていないことからもしかしたら、というだけで言われている部分が大きいです。

 

次の黒幕が他にいた説についてを今回のブログでは紹介していきたいと思います。

 

本能寺の変は光秀の単独行動だと思われがちですが、実際のところただの謀反だったのかはわかっていません。

 

 

まず光秀の単独行動だったとしたらどうしても納得できない点が1つあります。

 

それは「大義名分」です!

 

戦国時代の武将は謀反を起こすにしても、他国を攻めるにしても大義名分を重要視していました。

 

例えば信長が美濃を攻めるときは斉藤道山が遺した国譲状を大義名分としていました。

 

つまり、光秀が自分の殿であり、天下人と言っても差し支えなかった信長に剣を向けるならばそれ相応の大義名分がひつようだったはずなのです。

 

そこで考えられる説として「元将軍、足利義昭黒幕説」があります。

 

室町幕府第15代将軍足利義昭は信長によって将軍の地位に登り、そして信長によって京を追放された人物です。

 

将軍の地位を剥奪され、京からも追放されたとはいえ血筋は紛れもなく将軍家のものであり、もしも光秀が義昭の命で動いていたとしたら大義名分としては成り立っています。

 

 

同じ理由で「朝廷黒幕説」もあります。

 

信長は生前に朝廷に対して自らを太政大臣、もしくは征夷大将軍にするように要求していました。

 

これを認められなかった朝廷が光秀を利用して信長を討ったという説です。これも大義名分としては申し分ないです。

 

 

この2つの説は可能性としては充分考えられます。

 

しかしあくまで状況証拠でしかなく、証拠となる文書などがあるわけではないので確信を持つことは出来ません。

 

 

これだけ謎が残されている本能寺の変の真実を知ることができる日は来るのでしょうか?

 

現段階では真実解明の糸口すらも見えていないようです。

 

 

というわけで今回は以上です。最後まで読んでくれたあなたがとてもすきです。

また次回の記事で会いましょう。

 

んじゃ!!!

 

 

信長の大虐殺、「根切」の真の意味

皆さんこんにちはこんばんはおはようございます、ムツミです。

 

のんきにブログを書いていますが大学の課題提出期限が目前に迫ってきています。助けてくれる方を募集しています(マジ)

 

 

さて今回のテーマは「根切」の真の意味とは?です!

 

根切とは根元から切る、つまり皆殺し的な意味があります。

 

前回の記事で長島一向一揆において信長は門徒たちを虐殺した、と書きました。

 

f-mutsumi.hatenablog.jp

 

信長が長島一向でなぜ根切を行なったのかを考えていきたいと思います。

 

 

冷静に考えれば降伏してきた相手を皆殺しにする必要はありません。降伏した時点で戦は終了です。

 

一般的なイメージだと信長は坊主嫌いだから皆殺しにした、散々天下統一の邪魔をされてきたから鬱憤晴らしにやった、などと言われることも多い。

 

しかし、歴史を研究する者としてはそんなどこの史料から出てきたのかも分からないような適当な意見など真に受けるわけにはいきません。

 

感情論ではなく、その時代の事実から考えていきます。

 

 

そのためにもまずはこの時代の領主と民衆の関係性について説明していきます。

 

戦時には非戦闘員である民衆を領主は守らなければいけません。つまり戦で民衆の命を守れない領主は力が無いことを周りに示すことになります。

 

 

信長は長島の民衆を皆殺しにする事で長島の力、つまりは信長にとって武田や上杉、毛利などと同じかそれ以上に厄介だった本願寺の力が弱くなっていることを世間に知らしめようとしたのです。

 

本願寺が力を失いつつある事が分かると、本願寺側について信長に敵対していた勢力が考えを改める可能性もありますし、新たな一向衆門徒が増えることも防げます。

 

信長は坊主嫌いなどという感情ではなく、天下統一のための合理的な行動として長島の大虐殺、根切を行なったのです。

 

 

 

というわけで今回は以上です。最後まで読んでくれたあなたがだいすきです、また会いましょうね。

 

んじゃ!!

 

 

神田千里「信長と石山合戦 中世の信仰と一揆」の書評

皆さんこんにちはこんばんはおはようございます、ムツミです。

 

好きなYoutuberはQuizKnockさんとSho Fitnessさんとライバロリさんです。

 

 

さて、今日は神田千里さんの著作、『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』の書評をしていきます。

 

 

 

まず神田千里氏の著者を読むに当たって神田千里という人物について調べてみた。神田氏は中世後期の宗教社会史が専門の歴史学者であり、特に一向一揆などを中心に研究している。著書には『一向一揆真宗信仰』 や『一向一揆石山合戦 戦争の日本史』、『戦国と宗教』などがあり、論文には「戦国期本願寺と西国大名」や「戦国日本の宗教に関する一考察」、「ルイス・フロイスの見た戦国期日本の宗教の特質」などがあり戦国時代の宗教や一向一揆について詳しく研究していることが分かった。

 それでは内容に移りたいと思う。この本の流れは「一向一揆は解体したか」「一揆蜂起の背景」「門徒の蜂起」「大坂籠城」「王法と仏法」そして「『信長と石山合戦』を語る」というトピックスで構成されている。

 最初に「一向一揆は解体したか」について。ここでは本願寺教団についての通説から始まっている。本願寺教団は歴史小説やテレビドラマでは織田信長豊臣秀吉の脇役、歴史学においては中世が幕をおろし近世に至るための歴史的転換として重要なファクターの一つとして考えられてきていた。一向一揆は近世を築く支配者に抵抗し、最終的には消滅した、というのが一般的に考えられてきた一向一揆である。ここで神田氏は本当に一向一揆は解体されたのかについて切り込んでいった。「諸国より本願寺へ参詣の事、雑賀鷺森にいたりてその煩いあるべからざるものなり。 天正九年三月 日 (信長朱印)」という信長の朱印状から石山合戦終結後に信長は本願寺を赦免して、本願寺教団の存続を保証したことが分かっている。一向一揆の母体とも言える本願寺教団の存続が許された理由は従来の研究では、信長に降伏した後に本願寺教団は軍事力を持たず、支配者に従順な教団になったからだと考えられていた。しかし石山合戦終結以後、賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いの際に秀吉や家康が本願寺教団の武力に頼っていたことが分かっている。軍事力を失ったわけではなかった本願寺教団が、なぜ軍事力を失っていたこととなっていたのか。神田氏はこれを中世から近世への急激な「大変革」の筋書きに合わせてこしらえられたものだと説明した。神田氏は更に当時本願寺があった場所が石山と呼ばれていた証拠がないことから「石山合戦」という呼び方についても疑問を投げかけている。

 次は「一揆蜂起の背景」について。元亀元年に信長軍が三好三人衆(三好政康三好長逸・石成友通)との交戦中に本願寺からの攻撃を受けたことは信長にとって「寝耳に水」だったと表現している。本願寺宗主顕如の檄文によって多くの門徒がいっせいに動き出した。ここで顕如によって何故多くの門徒を動かすことが可能だったのかについてが考えられている。その回答として本願寺教団体制の特質を挙げている。本願寺の宗主は親鸞の血統を継ぐ人で世襲されているため、血筋による権威は大きい。一方で本願寺宗主は諸国の門徒団に地位を承認・擁立されることで教団の頂点に立っている。つまり本願寺宗主は血筋としても門徒たちからの承認という面からも高いカリスマ性を誇っていた。神田氏はこのような存在だったからこそ顕如は多くの門徒を軍事動員する事が出来たと推測している。本願寺教団を軍事的な観点から見ると、日本各地に宗主の命令一つで武装蜂起する家臣がいるようなものであり、「生半可の戦国大名よりはるかに強大で恐るべき軍事力」と神田氏は形容している。

 次に「門徒の蜂起」について。このトピックスは「浅井・朝倉の滅亡」「長島の大虐殺」「越前の殲滅」という三つに分かれている。その中でも長島一向一揆について書かれた「長島の大虐殺」では一揆の内容だけでなく、この時代の民衆と領主の関係についても記されていた。戦時には戦うことがない民衆の命を保護するのは領主の役割であった。長島一向一揆で信長は非戦闘員である長島の民衆を虐殺したといわれている。神田氏は「非戦闘員を大量虐殺することは、領主に対して、住民を戦乱から保護する危機管理能力のないことを宣告し、さらにそれは一般民衆に宣伝するものとなる」「虐殺は、領主の破産宣告を、世間にアピールするもの」と述べている。信長は長島願証寺の降参を許す選択肢もあったが、降参を許さない「根切」を行なった。信長は今まで散々天下統一の邪魔をされてきたことの鬱憤晴らしなどではなく、民衆への政治的アピールとして「根切」、虐殺を行なったというのが神田氏の考えである。ここで私が気になった点を一つあげておきたい。信長が長島一向一揆を滅ぼしたときに「根切」を行なったのは民衆に対する政治的アピール、と神田氏は述べていたが私はそれだけが理由ではないように思える。非戦闘員の「民衆」と一言で言っても様々である。その中には一向衆門徒も少なからずいたはずである。長島一向一揆の当時は非戦闘員だったとしても一向衆門徒である限りいつ信長に牙をむくかは分からない。それ故に信長は未来の敵になる可能性のある、危険な芽を摘んでおきたかったという理由もあるのではないかと私は考えている。

 続いて「大坂籠城」について。ここでは大坂という都市について説明がされていた。大坂は諸役免許、不入、楽座、徳政免許などの寺内特権があった。これらの特権があったからこそ大坂は商業都市として繁栄していたのである。そして本願寺には毎年多くの門徒が参詣し、その際にはあまりの混雑で圧死者が出ることすらあった。この圧死者は事故によるものだけでなく、「圧死することを無上の幸福と考えて、わざわざ参詣者の列の間に倒れる者もあった」のである。圧死することで極楽浄土に行ける、などという教えを本願寺がしていたとは考えにくいが、門徒にとって本願寺がどれだけ神聖視され、崇められていたかが窺う事は出来る。門徒の間で自立的に育っていった考え方はこれだけではない。神田氏は近世初期の笑話集の『醒睡笑』に収められたエピソードを引用している。朝倉貞景が戯れに会下の層に質問したエピソードである。「われわれは戦の時軍神である八幡大菩薩に祈る。敵方の一向一揆も戦である以上八幡大菩薩に祈るであろう。しかしわれわれは勝利し、一向一揆は敗れた。いったい八幡大菩薩の御利益はどうなっているのだろうか」と。僧侶の答えは「八幡大菩薩はわれわれに対しては現世安穏の利益をもたらし、一向一揆には後生善処の利益をもたらすのです」であった。ここから一向一揆の真実の目的は後生善処である、という認識があったことは明らかである。この信念は決して本願寺から説かれるはずのないことなので、門徒の間で自立的に広まった考えである事は明確である。石山合戦では本願寺宗主の顕如の命令によって門徒たちが戦っていたことは事実だが、門徒たちの中にあった信心が集約される場でもあったのだと神田氏は述べている。

 石山合戦終結時に顕如の息子の教如顕如の方針に逆らって信長に徹底抗戦を決めたが、何故突然決起したのかについて疑問を呈している。理由の一つ目として挙げられているのが、和平に反対していた雑賀衆などの存在である。圧倒的劣勢となり、敗北はほぼ確定した状況ではあったものの、元将軍の足利義昭教如に対してエールを送っていたことが分かっている。義昭は教如が決起したときに大坂支援の体制を固めるように毛利輝元小早川隆景に命じている。このような背景から雑賀衆などが和平に反対していたことが分かる。教如が決起する事ができたのは当然、顕如ではなく教如について行くことを決めた門徒が数多くいたからである。この理由は宗主が顕如から教如に変わることでメリットがある門徒が多数いたからである。石山合戦中頻繁に軍事動員が行なわれ、宗主の命令に応じなかったため破門された門徒は少なくなかったはずである。宗主が門徒に対して行なう制裁の最も重いものは、堕地獄にもつながる破門だった。破門された門徒が救われる道は宗主の代替わりしかなかった。破門された門徒たちに持ち上げられたことも教如顕如と決別した理由の一つであると神田氏は推測している。

 最後に「王法と仏法」について。ここでは信長と本願寺教団の関係、信長と本願寺教団は不倶戴天の敵同士であったか否か、という疑問を提起している。一般的な考え方としては、信長は長島の虐殺などから宗教勢力を嫌い、殲滅しようとしていたイメージがある。しかし長島の虐殺などは相手が一向一揆という宗教勢力だったから行なわれたことではないと前述している。神田氏は本願寺教団の特質は一向一揆に共通しているという点や、信長の虐殺の意味を従来とは違う観点から説明したことから意味のある研究だったとしているが、あくまで結論づけはしなかった。

 まとめとして、二〇〇八年に書き加えられた「『信長と石山合戦』を語る」について。「(本願寺が)信長との凄惨な対決により滅亡という悲劇的結末を迎えるという通説は、実は壮大な神話なのではないか」。神田氏が『信長と石山合戦』を執筆しようとした最大の理由、と述べたものである。本願寺は信長の天下統一を邪魔して、最後には滅ぼされるというイメージは確かに強い。しかし事実とは言えないことから「壮大な神話」という表現はしっくりきた。

 信長と本願寺教団の関係性における間違ったイメージを払拭し、石山合戦について様々な考察をすることが出来る一冊であった。

 

 

 

以上です、最後まで読んでくれたあなたが大好きです。また次の記事も読みに来てください!!!

 

 

んじゃ!!

長島一向一揆殲滅戦

皆さん、こんにちはこんばんはおはようございます。です。ムツミです。

 

趣味は筋トレです、ベンチプレスの最高重量は67.5キロです対戦宜しくお願いします(?)

 

さて、今日のテーマは長島一向一揆です!

 

長島一向一揆とは石山合戦に関連して伊勢長島(現在の三重県桑名市辺り)の一向衆門徒が蜂起し、織田信長と戦ったというものです。

 

長島一向一揆、と呼ばれていますが実際には信長が長島を攻める形だったので、信長の長島攻めと呼んだ方が正しいのかもしれません(今回は一般論に基づいて「長島一向一揆」を使います)

 

 

長島一向一揆は3つに分けることが出来ますが今回はその中でも天正2年の3つ目について書いていきます。

 

先に結論だけネタバレしてしまうと、信長は一向一揆を徹底的に殲滅することでこの戦いは終わります。長島一向一揆は信長が戦ってきた多くの戦の中でも最も凄惨で残虐であったと言われています。

 

 

それでは概要に移っていきましょう。

 

長島一向一揆において信長は5つの城を落とします。大鳥居城・篠橋城・屋中島城・中江城・長島城の5つ。

 

最重要拠点は長島城、そして長島願証寺です。信長は長島城並びに長島願証寺を落とすことが勝利条件でした。

 

しかし長島城は川に囲まれていたため非常に攻めるのが困難でした。

 

そこで信長は手始めに大鳥居城と篠橋城を陥落させた後に、長島城を攻めることにします。

 

 

攻める、といっても川を船で乗り越えて直接攻めるわけではなく、兵糧攻めです。

 

 

信長は川と河口を船で埋め尽くし、敵の兵糧輸送を封じることで長島城を落とすことを試みます。

 

 

ここで重要になってくるのが長島城に援軍が来るのかどうか、もっと詳細に言うと甲斐国の武田軍が援軍に来るかどうかです。

 

天正2年、8月14日に本願寺宗主の顕如武田は武田勝頼に長島への救援を要請しました。

 

もし武田軍が来れば信長軍は一気に劣勢に立たされることは想像に難くありません。

 

 

しかし、武田の援軍が長島に来ることはありませんでした。

 

武田にとって対信長において長島は重要であったのにも関わらず援軍に向かうことが出来なかった理由は明確には分かっていません。

 

ですので個人的な見解を少しだけ述べておきたいと思います。

 

まず武田には農繁期には戦を避ける、という慣習がありました。更に天正2年に武田は2回も出陣しており、兵たちも少なからず疲弊していたことが想像できます。

 

武田は自国のことで手一杯だったため長島への援軍に向かうことが出来なかったと考えられます。

 

 

結果として信長の兵糧攻めという作戦は大成功を収めます。兵糧攻めを開始して約3ヶ月で長島城の兵糧はほぼ底をつき、一揆勢は降伏します。

 

 

しかし、信長は降伏してきた人間に銃口を向けました。信長には様々な思惑があったのでしょうが、流石に降伏してきた相手を虐殺するのは残虐であると言っても差し支えないでしょう。

 

 

信長公記』には

 

「心ある者ども裸になり抜刀し織田型に切ってかかる」とある。

 

 

 

 

信長の行為に激怒した門徒たちは決死の覚悟で突撃し、信長軍の兵士を次々に道連れにしていきました。

 

その際に信長は従兄弟の信成、弟の秀成、そして兄の信広などの多くの肉親を失いました。

 

 

勿論最後の悪あがきでしかなかった門徒の抵抗はすぐに滅ぼされ、残りの屋中島城・中江城も焼き尽くされ、信長の勝利となりました。それでも信長にとってつらい戦いであったことは間違いありません。

 

 

 

信長は長島の脅威を取り除いたことでいよいよ武田と戦う準備が整ったこととなり、翌年の長篠合戦に繋がっていくこととなります。

 

 

 

 

 

 

今回は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 んじゃ!

織豊期についてのブログを始めます

皆さん初めまして。私はムツミといいます。

 

現在21歳、大学三年です。大学では日本史、特に織豊期について学んでいます。

 

このブログでは自分のアウトプットのために様々なことを書いていきますのできっと歴史を学びたい人には有益な情報になるはずです。

 

「なんとなく日本史が好き」という方から「大学で研究している」という方まで読んでいただける内容にしたいと思っているので期待していてください。

 

 

私は現在卒論のテーマを固める時期なのですが、予定としては織田信長本願寺教団などの宗教勢力の関係性をテーマにしようと考えています。まだざっくりとしか決めていないので多くの観点からしっかり勉強していきたいです。

 

 

 

 基本的には自分の勉強のために書いていくつもりですが良ければ皆さんの意見などを聞かせていただけると幸いです。

 

 

更新頻度、文章量など、どうなっていくか未定ですが探り探りやっていきますので気軽に見ていってください。

 

それでは今日はこの辺で終わります、また次の記事でお会いしましょう。

 

んじゃ!