長島一向一揆殲滅戦
皆さん、こんにちはこんばんはおはようございます。です。ムツミです。
趣味は筋トレです、ベンチプレスの最高重量は67.5キロです対戦宜しくお願いします(?)
さて、今日のテーマは「長島一向一揆」です!
長島一向一揆とは石山合戦に関連して伊勢長島(現在の三重県桑名市辺り)の一向衆門徒が蜂起し、織田信長と戦ったというものです。
長島一向一揆、と呼ばれていますが実際には信長が長島を攻める形だったので、信長の長島攻めと呼んだ方が正しいのかもしれません(今回は一般論に基づいて「長島一向一揆」を使います)
長島一向一揆は3つに分けることが出来ますが今回はその中でも天正2年の3つ目について書いていきます。
先に結論だけネタバレしてしまうと、信長は一向一揆を徹底的に殲滅することでこの戦いは終わります。長島一向一揆は信長が戦ってきた多くの戦の中でも最も凄惨で残虐であったと言われています。
それでは概要に移っていきましょう。
長島一向一揆において信長は5つの城を落とします。大鳥居城・篠橋城・屋中島城・中江城・長島城の5つ。
最重要拠点は長島城、そして長島願証寺です。信長は長島城並びに長島願証寺を落とすことが勝利条件でした。
しかし長島城は川に囲まれていたため非常に攻めるのが困難でした。
そこで信長は手始めに大鳥居城と篠橋城を陥落させた後に、長島城を攻めることにします。
攻める、といっても川を船で乗り越えて直接攻めるわけではなく、兵糧攻めです。
信長は川と河口を船で埋め尽くし、敵の兵糧輸送を封じることで長島城を落とすことを試みます。
ここで重要になってくるのが長島城に援軍が来るのかどうか、もっと詳細に言うと甲斐国の武田軍が援軍に来るかどうかです。
天正2年、8月14日に本願寺宗主の顕如武田は武田勝頼に長島への救援を要請しました。
もし武田軍が来れば信長軍は一気に劣勢に立たされることは想像に難くありません。
しかし、武田の援軍が長島に来ることはありませんでした。
武田にとって対信長において長島は重要であったのにも関わらず援軍に向かうことが出来なかった理由は明確には分かっていません。
ですので個人的な見解を少しだけ述べておきたいと思います。
まず武田には農繁期には戦を避ける、という慣習がありました。更に天正2年に武田は2回も出陣しており、兵たちも少なからず疲弊していたことが想像できます。
武田は自国のことで手一杯だったため長島への援軍に向かうことが出来なかったと考えられます。
結果として信長の兵糧攻めという作戦は大成功を収めます。兵糧攻めを開始して約3ヶ月で長島城の兵糧はほぼ底をつき、一揆勢は降伏します。
しかし、信長は降伏してきた人間に銃口を向けました。信長には様々な思惑があったのでしょうが、流石に降伏してきた相手を虐殺するのは残虐であると言っても差し支えないでしょう。
『信長公記』には
「心ある者ども裸になり抜刀し織田型に切ってかかる」とある。
信長の行為に激怒した門徒たちは決死の覚悟で突撃し、信長軍の兵士を次々に道連れにしていきました。
その際に信長は従兄弟の信成、弟の秀成、そして兄の信広などの多くの肉親を失いました。
勿論最後の悪あがきでしかなかった門徒の抵抗はすぐに滅ぼされ、残りの屋中島城・中江城も焼き尽くされ、信長の勝利となりました。それでも信長にとってつらい戦いであったことは間違いありません。
信長は長島の脅威を取り除いたことでいよいよ武田と戦う準備が整ったこととなり、翌年の長篠合戦に繋がっていくこととなります。
今回は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
んじゃ!