神田千里「信長と石山合戦 中世の信仰と一揆」の書評

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さて、今日は神田千里さんの著作、『信長と石山合戦 中世の信仰と一揆』の書評をしていきます。

 

 

 

まず神田千里氏の著者を読むに当たって神田千里という人物について調べてみた。神田氏は中世後期の宗教社会史が専門の歴史学者であり、特に一向一揆などを中心に研究している。著書には『一向一揆真宗信仰』 や『一向一揆石山合戦 戦争の日本史』、『戦国と宗教』などがあり、論文には「戦国期本願寺と西国大名」や「戦国日本の宗教に関する一考察」、「ルイス・フロイスの見た戦国期日本の宗教の特質」などがあり戦国時代の宗教や一向一揆について詳しく研究していることが分かった。

 それでは内容に移りたいと思う。この本の流れは「一向一揆は解体したか」「一揆蜂起の背景」「門徒の蜂起」「大坂籠城」「王法と仏法」そして「『信長と石山合戦』を語る」というトピックスで構成されている。

 最初に「一向一揆は解体したか」について。ここでは本願寺教団についての通説から始まっている。本願寺教団は歴史小説やテレビドラマでは織田信長豊臣秀吉の脇役、歴史学においては中世が幕をおろし近世に至るための歴史的転換として重要なファクターの一つとして考えられてきていた。一向一揆は近世を築く支配者に抵抗し、最終的には消滅した、というのが一般的に考えられてきた一向一揆である。ここで神田氏は本当に一向一揆は解体されたのかについて切り込んでいった。「諸国より本願寺へ参詣の事、雑賀鷺森にいたりてその煩いあるべからざるものなり。 天正九年三月 日 (信長朱印)」という信長の朱印状から石山合戦終結後に信長は本願寺を赦免して、本願寺教団の存続を保証したことが分かっている。一向一揆の母体とも言える本願寺教団の存続が許された理由は従来の研究では、信長に降伏した後に本願寺教団は軍事力を持たず、支配者に従順な教団になったからだと考えられていた。しかし石山合戦終結以後、賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いの際に秀吉や家康が本願寺教団の武力に頼っていたことが分かっている。軍事力を失ったわけではなかった本願寺教団が、なぜ軍事力を失っていたこととなっていたのか。神田氏はこれを中世から近世への急激な「大変革」の筋書きに合わせてこしらえられたものだと説明した。神田氏は更に当時本願寺があった場所が石山と呼ばれていた証拠がないことから「石山合戦」という呼び方についても疑問を投げかけている。

 次は「一揆蜂起の背景」について。元亀元年に信長軍が三好三人衆(三好政康三好長逸・石成友通)との交戦中に本願寺からの攻撃を受けたことは信長にとって「寝耳に水」だったと表現している。本願寺宗主顕如の檄文によって多くの門徒がいっせいに動き出した。ここで顕如によって何故多くの門徒を動かすことが可能だったのかについてが考えられている。その回答として本願寺教団体制の特質を挙げている。本願寺の宗主は親鸞の血統を継ぐ人で世襲されているため、血筋による権威は大きい。一方で本願寺宗主は諸国の門徒団に地位を承認・擁立されることで教団の頂点に立っている。つまり本願寺宗主は血筋としても門徒たちからの承認という面からも高いカリスマ性を誇っていた。神田氏はこのような存在だったからこそ顕如は多くの門徒を軍事動員する事が出来たと推測している。本願寺教団を軍事的な観点から見ると、日本各地に宗主の命令一つで武装蜂起する家臣がいるようなものであり、「生半可の戦国大名よりはるかに強大で恐るべき軍事力」と神田氏は形容している。

 次に「門徒の蜂起」について。このトピックスは「浅井・朝倉の滅亡」「長島の大虐殺」「越前の殲滅」という三つに分かれている。その中でも長島一向一揆について書かれた「長島の大虐殺」では一揆の内容だけでなく、この時代の民衆と領主の関係についても記されていた。戦時には戦うことがない民衆の命を保護するのは領主の役割であった。長島一向一揆で信長は非戦闘員である長島の民衆を虐殺したといわれている。神田氏は「非戦闘員を大量虐殺することは、領主に対して、住民を戦乱から保護する危機管理能力のないことを宣告し、さらにそれは一般民衆に宣伝するものとなる」「虐殺は、領主の破産宣告を、世間にアピールするもの」と述べている。信長は長島願証寺の降参を許す選択肢もあったが、降参を許さない「根切」を行なった。信長は今まで散々天下統一の邪魔をされてきたことの鬱憤晴らしなどではなく、民衆への政治的アピールとして「根切」、虐殺を行なったというのが神田氏の考えである。ここで私が気になった点を一つあげておきたい。信長が長島一向一揆を滅ぼしたときに「根切」を行なったのは民衆に対する政治的アピール、と神田氏は述べていたが私はそれだけが理由ではないように思える。非戦闘員の「民衆」と一言で言っても様々である。その中には一向衆門徒も少なからずいたはずである。長島一向一揆の当時は非戦闘員だったとしても一向衆門徒である限りいつ信長に牙をむくかは分からない。それ故に信長は未来の敵になる可能性のある、危険な芽を摘んでおきたかったという理由もあるのではないかと私は考えている。

 続いて「大坂籠城」について。ここでは大坂という都市について説明がされていた。大坂は諸役免許、不入、楽座、徳政免許などの寺内特権があった。これらの特権があったからこそ大坂は商業都市として繁栄していたのである。そして本願寺には毎年多くの門徒が参詣し、その際にはあまりの混雑で圧死者が出ることすらあった。この圧死者は事故によるものだけでなく、「圧死することを無上の幸福と考えて、わざわざ参詣者の列の間に倒れる者もあった」のである。圧死することで極楽浄土に行ける、などという教えを本願寺がしていたとは考えにくいが、門徒にとって本願寺がどれだけ神聖視され、崇められていたかが窺う事は出来る。門徒の間で自立的に育っていった考え方はこれだけではない。神田氏は近世初期の笑話集の『醒睡笑』に収められたエピソードを引用している。朝倉貞景が戯れに会下の層に質問したエピソードである。「われわれは戦の時軍神である八幡大菩薩に祈る。敵方の一向一揆も戦である以上八幡大菩薩に祈るであろう。しかしわれわれは勝利し、一向一揆は敗れた。いったい八幡大菩薩の御利益はどうなっているのだろうか」と。僧侶の答えは「八幡大菩薩はわれわれに対しては現世安穏の利益をもたらし、一向一揆には後生善処の利益をもたらすのです」であった。ここから一向一揆の真実の目的は後生善処である、という認識があったことは明らかである。この信念は決して本願寺から説かれるはずのないことなので、門徒の間で自立的に広まった考えである事は明確である。石山合戦では本願寺宗主の顕如の命令によって門徒たちが戦っていたことは事実だが、門徒たちの中にあった信心が集約される場でもあったのだと神田氏は述べている。

 石山合戦終結時に顕如の息子の教如顕如の方針に逆らって信長に徹底抗戦を決めたが、何故突然決起したのかについて疑問を呈している。理由の一つ目として挙げられているのが、和平に反対していた雑賀衆などの存在である。圧倒的劣勢となり、敗北はほぼ確定した状況ではあったものの、元将軍の足利義昭教如に対してエールを送っていたことが分かっている。義昭は教如が決起したときに大坂支援の体制を固めるように毛利輝元小早川隆景に命じている。このような背景から雑賀衆などが和平に反対していたことが分かる。教如が決起する事ができたのは当然、顕如ではなく教如について行くことを決めた門徒が数多くいたからである。この理由は宗主が顕如から教如に変わることでメリットがある門徒が多数いたからである。石山合戦中頻繁に軍事動員が行なわれ、宗主の命令に応じなかったため破門された門徒は少なくなかったはずである。宗主が門徒に対して行なう制裁の最も重いものは、堕地獄にもつながる破門だった。破門された門徒が救われる道は宗主の代替わりしかなかった。破門された門徒たちに持ち上げられたことも教如顕如と決別した理由の一つであると神田氏は推測している。

 最後に「王法と仏法」について。ここでは信長と本願寺教団の関係、信長と本願寺教団は不倶戴天の敵同士であったか否か、という疑問を提起している。一般的な考え方としては、信長は長島の虐殺などから宗教勢力を嫌い、殲滅しようとしていたイメージがある。しかし長島の虐殺などは相手が一向一揆という宗教勢力だったから行なわれたことではないと前述している。神田氏は本願寺教団の特質は一向一揆に共通しているという点や、信長の虐殺の意味を従来とは違う観点から説明したことから意味のある研究だったとしているが、あくまで結論づけはしなかった。

 まとめとして、二〇〇八年に書き加えられた「『信長と石山合戦』を語る」について。「(本願寺が)信長との凄惨な対決により滅亡という悲劇的結末を迎えるという通説は、実は壮大な神話なのではないか」。神田氏が『信長と石山合戦』を執筆しようとした最大の理由、と述べたものである。本願寺は信長の天下統一を邪魔して、最後には滅ぼされるというイメージは確かに強い。しかし事実とは言えないことから「壮大な神話」という表現はしっくりきた。

 信長と本願寺教団の関係性における間違ったイメージを払拭し、石山合戦について様々な考察をすることが出来る一冊であった。

 

 

 

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